第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 76 05.04.26 |
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08) 俘虜郵便の検閲(その1) |
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第一次世界大戦下の日本発着通常郵便物の検閲については、日独戦争第一部 (郵便検閲制度)で取上げた。ここでは、同時期の日本発着の俘虜郵便の検閲につ いて取上げてみたい。 ドイツ俘虜発受の俘虜郵便の検閲では、原則として陸軍省俘虜情報局の監督下 に、各収容所において独自の検閲事務が行われている。また、それを補足統括す る形で俘虜情報局も検閲を行っている。俘虜郵便収集では、これらの郵便検閲印 の分類収集が大きな魅力のひとつになっているが、単に印影収集に終わらない為 に、これらの検閲事務の流れや検閲の意味ももう一度確認してみたい。 俘虜郵便の検閲の目的は、簡単に言えば、日本、及び連合国側に不利となる情 報の漏洩阻止である。軍事関連の情報はもちろん、ドイツ俘虜の取扱待遇に関す る不満等の存在も、外部に漏れてはならない。これらは軍事作戦上の情報統括の みならず、敵国及び国際社会に対する、「国際法を遵守する一等国としての日本」 の面子を保持する為の情報管理の側面もあったのである。 大正4年1月の俘虜情報局月報(俘発第465号)には、ドイツ俘虜日本到着以来二 ヶ月間の、ドイツ俘虜差出俘虜郵便の検閲没収信書が記録されている。それらの 概要を幾つか紹介してみよう。 |
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(秘密通信) 秘密信書 俘虜ニ宛テタル信書ハ逐次増加シ殊ニ獨逸本国ヨリ来ルモノハ各舩 便毎ニ一括数百通到着シ時々検閲ニ忙殺セラルルコトアルカ如シ然レトモ収容所 ニ於テハ別表ノ如ク俘虜ノ發信ヲ制限シ尚右ノ如キ場合ニ於テハ一時發信中止ヲ 命スルヲ以テ信書ノ検閲ハ大体ニ於テ略、故障ナク進捗シツツアルカ如シ、然レト モ近来獨逸本国若クハ支那方面ノ獨逸人ヨリ俘虜ニ對シテ秘密通信ヲ企テ若クハ 之カ方法ヲ説明シテ實行ヲ促ス者アリ又俘虜中ニモ同様ノ計画ヲナス者アルヲ以テ 信書ノ増加ト共ニ収容所ノ検閲ハ更ニ注意ヲ倍徒スルノ必要アリ依テ當局ハ此等 秘密通信発見ノ通報ニ接スルヤ成ルヘク速ニ其詳細ヲ他ノ収容所ニ通諜シ又現物 ヲ回覧ニ供シツツアリ(俘発第805号、俘虜情報局月報、大正4年4月) 上記のように日本側の郵便検閲官に挑戦するが如く、様々な秘密通信が企てら れている。同俘虜情報局月報では、説明図も含めた秘密通信の没収例を紹介し、 各収容所に回覧させている。さながら今日の税関検査を彷彿とさせるが、郵便検閲 官との知恵比べの様相を呈し非常に興味深い。 |
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図283 説明図付隠匿法の例 |
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図284 |
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オーストリア・ウィーン発信熊本収容所俘虜(Karl Ratzenberger ・墺艦カイゼリン・ エリザベート乗組員)宛俘虜郵便。イギリス軍検閲官が貼付切手を剥し、その下に 秘密通信が無いか検閲した物。オーストリア切手が貼付されていたと考えられ、イ ギリス軍の検閲印及び熊本収容所の検閲印が剥された部分に押印されている。 1915年(大正4年)初頭の使用例と考えられる。 |
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図285 |
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ドイツ・ミュンヘン発信・1915年(大正4年)1月26日、福岡収容所俘虜(Jakob Neumaier・海軍砲兵隊第四中隊・4K/MAK)宛俘虜郵便。(大正3年8月27日青島、 ノイマイアーが最初に日本艦隊を確認、報告したといわれている。)福岡収容所の 郵便検閲官によりドイツ切手を剥され、検閲されたものと考えられる。 本来俘虜郵便は、国際条約に基づき、その郵便規則に従えば郵便料金は無料で ある。しかしながら、俘虜郵便の記載があるにも拘らず、郵便切手を貼付した俘虜 郵便がしばしば見受けられる。その多くはアメリカをはじめとした第三国差出の到着 便が殆どで、当事国のドイツやオーストリア差出の郵便切手貼付俘虜郵便はなか なか見ることが出来ない。これは、ドイツやオーストリアでの俘虜郵便規則の周知 が徹底していたからと考えられる。 また、日本国内の日本人商人差出、及び在青島ドイツ人差出のドイツ俘虜宛俘虜 郵便では、しばしば日本の官製葉書も利用されている。 |
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