第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 70      05.01.05

05) 青島陥落前のドイツ俘虜(その1)

 青島攻略軍が龍口に上陸(大正392)して以来、青島陥落(同年117
に至るまで、青島陥落前に日本側俘虜となった青島守備軍のドイツ兵の記録は、断
片的なものが多く、人数等の記録も資料により若干の誤差が見受けられる。ここで
は、幾つか重要と思われる記録を取上げてみたい。


(陸軍参謀本部の記録・
大正3116日迄の青島方面俘虜収容数)

将校二名、下士卒九十名、文官其他二名、計九十四名

922日〜102の記録・106俘虜情報局発表・要約)

 
922、流亭に於いてドイツ兵俘虜一名を鹵獲、負傷により患者療養所に収容
・ 
927、李村付近に於いてドイツ兵俘虜一名を鹵獲、
 
92728、浮山においてハンス・グラボー中尉、エルンスト・ヴェオースレフ少
  尉、他下士以下五十四名を鹵獲、内二名は負傷により患者療養所に収容

・ 
102、日本軍右翼隊方面戦闘によりドイツ兵俘虜六名を鹵獲、内二名は負
  傷により野戦予備病院に収容


(姑山浮山のドイツ俘虜・久留米俘虜収容所収容俘虜第一陣)

 
大正3926日〜28にかけて、日本軍は敵の第一防御線(姑山浮山)の占領
を完了した。この戦闘では両軍多大な損害を被ったが、日本軍は一度の戦闘で開
戦以来初めて数十名という纏まった数のドイツ兵俘虜を得ている。陸軍参謀本部の
記録では、計
60名(将校2名、下士卒以下58名)、(注:青島戦記・朝日新聞の記録
では計
63名)(注:上記俘虜情報局の記録では計56名)を
928日正午、俘虜として
確認している。


 この内健康者は
103労山湾に護送され、同月9日本に移送されている。こ
れは久留米に収容所が開設(
106)後の収容俘虜第一陣である。


図268 久留米驛に到着せる獨逸俘虜

 我軍に俘虜となりたる獨逸中尉少尉各一名下士九名卒四十四名合計五十五名
は御用船にて八日夜六連島に到着九日早朝門司入港同港務部彦島消毒所にて全
員消毒の上同四時發列車にて久留米に送らるる筈(門司特電)


図269 久留米へ着す 規律頗る厳正(東京朝日新聞・大正31010日)

 獨逸捕虜将校二名以下下士卒五十四名(注:53名の誤植)は九日午後八時十七
分久留米に着したるが「九日俘虜來る」の聲全市に響き渡り居たる事とて停車場附
近は云ふ迄もなく沿道數十町の間参観の子女數を知らず捕虜一行はホームに於
いて列を整へ樫村収容所長之を引率し直に筑後軌道に搭じて
日吉町なる大谷派教
務所なる収容所に向ひ豫て準備しある本堂に収容されたり将校二名は其収容所た
る梅林寺の設備全からざるより旅館に収容したるが十日より同寺の大書院たる四
十畳敷の第二客間に収容の筈なり、捕虜に對する當地人の観念は非常に良好に
して極めて静粛に一人も悪罵嘲弄を為す者なく寧ろ可憐の情を以て之を迎へたり
捕虜等も亦規律頗る厳正にして遉に文明國民なりと噂し合へり
269 久留米特電)

(注:陸軍参謀本部の記録は、「秘大正三年日独戦史」より)

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