第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 69      04.10.07

04) 日本人俘虜(その3)

 第一次世界大戦下の欧州の日本人俘虜と日本を結んだ俘虜郵便は、筆者の知
るところ郵趣界では1点しか記録がない。ここでは、その貴重な使用例を紹介すると
ともに、その裏に隠された歴史も取上げてみたい。


 
大正7年(1918年)11月11日、俘虜情報局発信(櫛型・麹町/7.11.11.)ドイツ・ギュス
トロー収容所・日本人俘虜須坂栄吉氏宛の俘虜郵便である。東京丸ノ内海事研究
会より依託された義捐金(15円)送付通知・同受領確認の為の返信部(未使用)付
の俘虜情報局製往復葉書である。
発信日11月11日はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世
が退位(9日)した直後であり、
11日(欧州時間)はドイツと連合国との間に休戦協定
が結ばれた歴史的な日でもあった。

返信部裏面

図264 往信部表面

往信部裏面

図265 返信部表面

 日本郵船欧州定期航路第27次船“常陸丸”(6716t・速力15.6k)が横浜港を出港し
たのは、
大正6年(1917年)8月29日の午前10時であった。この“常陸丸”は日本郵船
としては二代目であり、初代“常陸丸”は日露戦争時に没している。

 乗組員は117名(役員21名・属員96名)で、船長は富永清蔵(46歳)、唯一女性では
看護方鯨岡カメノがいた。属員(下級船員)は、甲板担当22名、機関担当34名、事
務接客担当40名から成っていた。その中に、19名のボーイの一人として勤務してい
た須坂栄吉氏(明治29年1月29日生・当時21歳・横浜市出身)がいたのである。
 
横浜出港時、船客は一等船客の海軍機関少佐白石研吉を含む日本人3名、外国
人約40名で、門司、上海を経由し、
9月24日には常陸丸の姿はコロンボにあった。
同日午前10時20分コロンボ発、この時点では船客日本人3名を含む43名、乗組員
117名を加えて総計160名を数えた。次の寄港予定地は、
10月7日到着予定の南ア・
デラゴア港であり、航海は順調そのものであった。


 異変が起きたのはインド洋上、コロンボより五百数十浬の地点であった。
9月26日
午後2時32分
、イギリス商船を装ったドイツ仮装巡洋艦ヴォルフが現われ、停船信
号を発しながら攻撃してきたのである。常陸丸も簡易武装(4インチ砲)を一門装備し
ていたが応戦の機会を失い、煙突後部に命中したヴォルフの砲弾は多数の死傷者
を出した。
2時41分機関停止、ヴォルフも攻撃を中止、避難ボートにより船を離れた
船客と共に常陸丸はヴォルフに拿捕され、船尾にはドイツ軍艦旗が掲げられたので
ある。結局この攻撃での常陸丸の被害は、即死乗組員11名、海中落下行方不明イ
ンド人船客2名、重傷者数名、残りの乗組員と船客はヴォルフに収容され、数名の
日本人乗組員とともに常陸丸もヴォルフの指揮下に入った。この時既にヴォルフ
は、英国商船トルテラ号を始め英米商船の俘虜を多数収容しており、新たに俘虜と
なった常陸丸乗員乗客の収容区域は最下層の三番船艙が充てられることとなっ
た。
この後11月8日、常陸丸はヴォルフにより物資が全て運び出され、サヤデマル
ハ・バンク南西20浬の地点で爆破沈没されている。

 
10月半ばになっても常陸丸がデラゴア港に現われない事から、日本郵船では常
陸丸の安否確認が続いていた
10月18日海軍省は正式に常陸丸の消息不明を確
認、直ちにイギリス海軍、フランス海軍へ協力を求め、日本からは日本郵船の社命
により欧州復路上の鹿島丸、海軍からは巡洋艦日進も捜索にあたった。海軍はさら
に日本郵船筑前丸を旗艦とする捜索隊を結成し、海軍航空隊モーリスファルマン水
上機2機とともに
11月末神戸を出港、12月中旬よりコロンボを起点に捜索を続け
た。しかしながら、
翌年1月19日何の成果も上がらないまま筑前丸は捜索を断念、2
月9日
神戸に帰着している。


図266 大正6年11月20日、常陸丸捜索隊結成、東京朝日新聞

 11月10日ヴォルフは新たにスペイン貨物船イゴツメンジ号を拿捕、増えすぎたヴ
ォルフ収容俘虜の内、病人・老人・女子供を中心に72名をイゴツメンジ号に移乗さ
せ、ヴォルフを追随させた。
大正7年(1918年)になり、ヴォルフとイゴツメンジ号は北
航を続け、
1月15日、イゴツメンジ号は単独でのドイツ帰港を命令されヴォルフと別
れる事となった。
 
2月25日ドイツに向かう途中イゴツメンジ号は、海霧の為デンマーク・スカーゲン岬
灯台付近で座礁し、俘虜はデンマーク保護下に解放されている。この中に常陸丸イ
ギリス人乗客の一部、常陸丸看護方鯨岡カメノもいたが、鯨岡カメノは唯一の日本
人として、コペンハーゲンの日本名誉領事保護下にはいった。コペンハーゲン来電
として
2月28日海軍省がこの事実を公表、鯨岡カメノの安否が東京の日本郵船に確
認されたのは
3月9日になってからだった。


図267 大正7年3月2日、コペンハーゲン来電、東京朝日新聞

 一方ヴォルフもドイツを目指して大西洋を北上し、1918年2月には北極圏に到達し
た。
2月7日ヴォルフから常陸丸富永船長が行方不明となった。遺書があった事か
ら、ドイツが近いことを知り責任感から海中へ投身自殺したと断定された。この時点
でのヴォルフの常陸丸乗組員は101名(117名中:即死11名を含む戦死13名、船中
病死1名、富永船長自殺、看護方鯨岡カメノ解放)、その他の日本人船員と船客5
名。


図268 大正7年3月3日、富永船長と常陸丸の最期、東京朝日新聞

 2月24日ヴォルフはキール軍港にはいり、先ず重傷の日本人俘虜5名が上陸し、2
月29日
常陸丸役員(高級船員)18名が上陸、カールスルーエに移送。カールスルー
エより5名がワーンベック収容所へ、13名がブランデンブルグ収容所第82キャンプ
にそれぞれ移送された。


 
3月2日残りの常陸丸属員(下級船員)とその他の日本人計83名は、リューベックを
経由し、ロストック南方の寒村ギュストロー収容所に移送された。常陸丸のボーイ須
坂栄吉氏もこの中にいた。冬のギュストローは非常に寒さが厳しく、イギリス俘虜を
はじめとする収容期間が長い俘虜の中には、命を落とすものも多かったという。
 暫くしてギュストロー収容所の日本人俘虜より労役班が組織され、ハンブルグ近
郊の各種工場に労働力として送り込まれている。日本人俘虜とドイツ人女工との恋
の話などもあったようだ。


 ギュストロー収容所での郵便検閲に関しては、日本文検閲主任ブレフェー伍長、
常陸丸司厨石井君太郎が日本文下検閲官として任務についている。また、ドイツ国
内収容所の日本人発信の俘虜郵便はギュストロー収容所の検閲監督下にあり、一
度ギュストロー収容所に集められている。


 
1918年3月以降、日本でも在ドイツ日本人俘虜の存在が確認され、各国赤十字機
関をはじめとする援助物資も僅かながら届くようになった。また、イギリス陸軍士官
アダムスの報告により、俘虜となった白石研吉機関少佐の消息も落合オランダ公使
を通して外務省に打電されている。
 その後、ブランデンブルグ収容所より9名の日本人俘虜がワーンベック収容所へ
移動。
8月27日ギュストロー収容所から、80余名が北方ユトランド半島バーキンモア
ー収容所に移動、鉄道敷設工事の労役が課せられた。須坂栄吉氏もバーキンモア
ー収容所に移動している。


 連合国とドイツ休戦協定への協議が始まった事により、
1918年11月5日より、在ド
イツ連合国俘虜の労役が停止された。ワーンベック収容所では、
11月22日より俘虜
解放が始まり、
12月10日ドイツ当局より日英士官級俘虜の解放が言い渡された。
12月11日
、収容所を発ち13日ロッテルダム到着。英国陸軍御用船タカダ号により明
朝ハル港着。日本郵船職員に迎えられ、
14日夜ロンドン着。日本郵船ロンドン支店
社員一同、在ロンドンの日本人数十名の歓迎を受けている。その後、ワーンベック
収容所の18名は
一月中旬日本郵船伊予丸で帰国の途につき、3月3日神戸港に帰
着している。

 一方、バーキンモアーの日本人俘虜は、
休戦協定締結の後11月21日にギュスト
ロー収容所に再び移送され、解放の手続きのため待機する事となった。この時期、
須坂栄吉氏もこの俘虜郵便(
図264)を受取っているはずである。
 翌1919年(大正8年)1月5日
、ギュストロー収容所より解放、フランス將校に引率さ
8日デンマーク・コペンハーゲンに到着。同地で英国赤十字保護下に入り、10日
トックホルム日本公使館飯田秘書官来訪、身元確認の後、
13日英国御用船エシャ
ック号により
16日リーズ軍港に到着。同地で日本郵船社員の出迎えを受け、列車に
てエジンバラを経由しリバプールに向かった。常陸丸属員81名は日本郵船により帰
国の途につき
3月28日無事神戸に帰着した。
 常陸丸乗組員117名のうち、戦死13名、自決1名、病死3名、帰国できたのは100名
であった。


 (注:常陸丸属員の日本帰着日時は、常陸丸属員十数名が昭和4年9月に外務省
に申請した日独戦争による損害救恤申請書の記録では3月28日。「印度洋の常陸
丸」長谷川伸著 1962年 新小説社では、5月中旬に日本郵船静岡丸で神戸に帰着
となっている。)

ご意見・ご感想は当社迄 でお願い致します。 目次へ