第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 67      04.09.06

04) 日本人俘虜(その1)

 第一次世界大戦期の敵国による日本人拘束者、日本人俘虜の記録は非常に少
なく、現段階ではその全貌の解明には至っていない。断片的ではあるが、ここでは
幾つかの記録から欧州の日本人、戦時の日本人拘束者・俘虜など、関連事項を取
上げてみたい。

(伯林脱走記)
 河上肇は大正昭和期における日本マルクス主義の先導者であり、当時の各分野
の人々に多大な思想的影響を与えた知識人としても知られている。
大正2年(1913
・当時34歳)、京都帝国大学法科大学講師から欧州への文部省留学生に選ば
れ、ベルギー、フランス、ドイツ、イギリス各国に滞在しながら大阪朝日新聞や中央
公論などに寄稿し、帰国後の
大正4年には京都帝国大学法科大学教授となってい
る。第一次世界大戦勃発時ベルリンにいた河上は、日本参戦直前
(1914年8月)
同地を脱出しロンドンへ避難しているが、その道中の記録が「祖国を顧みて」(
大正
4年11月
・岩波文庫2002)に詳細に語られている。興味深い部分を簡単に紹介したい。


図259 ベルリン・騎乗のヴィルヘルム2世


図260 20世紀初頭のロンドン市内

6月末  新聞紙上に欧州平和が危機に迫るという報道がでる。
7月31日  ドイツ全土に戦時体制の布令がでる。
8月02日  ドイツ陸海軍に動員令が公表される。ロシアに宣戦布告。
 ベルリン市内で狂喜せるベルリン市民群集の大行進。
 ベルリン市内で日本がロシアに宣戦したとのデマが流れ、地方新聞
 では号外まで出て日本人は大人気となり、日本領事館前に群集が
 集まる。
8月上旬  文部省の留学費が、日欧の通信杜絶の為受取れない。日本への電
 報不通。
 イギリスがドイツに最後通牒を出す。英独開戦の報。(8月4日)
 日本大使館からドイツ出国の為の身分証明書が送られてきて、帰朝
 を勧める注意書が配布される。日本人のロンドンへの避難が始まる。
 日本への手紙はドイツ語に限られ、60日位かかると聞く。
8月14日  日本大使館の形勢が一変する。船越ドイツ代理大使より日本人即時
 退去の命令。日本大使館に日独開戦の危機が張紙される。この時点
 の在ベルリン日本人約四百名。河上も退去を決断。
 (日本時間15日、日本最後通牒)
8月15日  荷物整理のあと大半は宿に預けることにする。ドレスデン銀行でドイ
 ツ紙幣をオランダ紙幣に換える。ベルリン駅で切符購入。銀行でも駅
 でも多数の日本人を見る。夜10時半、手荷物のみで出発。乗客の大
 半は日本人。
 多くのドイツ人が日本人に退去の理由を尋ねる。同駅より発つ日本
 人、13日夜は僅か二名、昨日14日夜は百余名、本日15日夜も百余
 名との事。
 深夜、ベルリン出発。
8月16日  午後4時、レーネで乗換。夜11時、ライネ着。ドイツより最後の絵葉書
 をドイツ語にて送る。
8月17日  午前1時、ザルツブルグで朝まで停車。駅構内の電灯は消されている。
 5時半、ザルツブルグ発車。6時ベルトハイムに停車、国境検査、獨蘭
 国境通過。 8時半、オランダ・ハーグまでの切符購入。オルデンツア
 ールで税関検査。日本へ絵葉書を送る。午後4時半 オルデンツアー
 ル発車。
 オランダの新聞に「日本の最後通牒」と題する電報が掲載。脱出日本
 人で無事を祝してビールで乾杯。夜、ハーグに一泊。
8月18日  夕刻、ハーグ発。深夜、海岸沿いのフラッシングに到着。イギリス行き
 汽船に乗船。日本人で満席。
8月19日  午前11時出港。午後五時、イギリス・クイーンズボロー着。
 夜9時ロンドン市内に入る。19日以後ドイツ国境で日本人2名が拘束と
 の話を聞く。

 また、同じ列車でベルリンを脱出した日本人の同様の手記も幾つか知られている
が、何れもロンドンへ避難している。「欧州戦争実記」(大正3年10月号・博文館)に
は、留学中の永田メリヤス工場主永田信一、東京高等商業学校教授瀬川芳文の
手記が記録されている。同じく東京朝日新聞(大正3年10月1日)には、医学博士芳
我石雄が手記を寄稿している。


(日独国交断絶・
8月23日の伯林)
 
当時の在ベルリン、ドイツ代理大使船越光之丞の手記により
1914年8月23日のベ
ルリ
ン日本大使館の状況を簡単に記録する。(桜とアザミ・博田博著・光人社1974)

8月23日  ドイツ外務省モンジュラ極東部長が日本の最後通牒に対して「無回
 答」を持参。日本に裏切られた失望を伝える。
 日本大使館前にはドイツ人群集が集まり、拳をあげて憤慨する者、
 罵る者などあり。昨日の友邦は今日の敵、この情景実に感慨無量
 なり。
8月24日  日本大使館総員はトランク64個其の他を整理し、タクシーで脱出。ド
 イツ側許可の上、午前6時シュレージッシェ駅よりオランダ・ハーグへ
 出発。
 ロンドンへ避難開始する。

(青島の日本人拘束者)
 青島における日独戦争では、日本軍兵士俘虜の記録は見つける事が出来なかっ
た。唯一日本人拘束者の記録としては、神戸の貿易商・湯浅竹之助商店青島支店
支那山東省以州府湯浅出張所勤務の奥山政次郎、小柴彦次、田崎猪熊の三名が
ある。
大正3年9月4日、東京朝日新聞済南特電により報告されているが、この時点
では外務
省は事実無根としてこの情報を否定している。この三名は
7月上旬以州府
地方へ出張、日
独開戦の危機を知らず、
8月22日、海路ジャンク船にて青島に帰る
途中ドイツ官憲により
逮捕拘束、軍事スパイの嫌疑により拘束された。
9月1日、湯
浅商店済南支店の申請により、
森岡外務書記生がドイツ領事に釈放を求めるが拒
否され、外務省は在青島米国領事を通して釈放保護を正式に申請した。結局この
三名は、米国領事の保護下に生命の安全は保障されたものの、釈放される事なく
青島ドイツ軍により拘禁されている。
11月16日、日本軍青島入城式当日になって日
本軍憲兵隊によりその安否が確認され、無事解放されている。

(南洋の日本人拘束者)
 海軍省公表の記録では、
大正3年10月3日、ヤルート島占領の際島内に拘禁中同
胞一名、
岡山県人塚村兼吉を救出、拘留英国船エンジユナー号解放の記録がある。
 また、日本人拘束者氏名など詳しい事は分かっていないが、
大正3年11月7日付
の東京朝日新聞の記録も紹介したい。「去月我艦隊の一部が南洋カロリン、マーシ
ャル群島等を占領したる結果〜、邦人の敵の為拘禁せられ居りたるもの十三名を
救出し、又拘留され居りたる日本人所有の帆船グアム丸を解放せり」


図261 ヤルート島の占領(欧州戦争実記より)

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