日独戦争と俘虜郵便の時代 46 03.11.26 |
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23) 青島守備軍の普通郵便局(その2) |
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前回、山東の普通郵便局(第一次局、9局所)の設置について述べたが、従来の 郵趣文献の多くは普通郵便局設置の理由として、「民間人の増加に伴う公衆(有 料)郵便物の増加、野戦郵便局が公衆郵便も扱う矛盾の解消」等を挙げている。筆 者も、普通局設置の理由としてはこれらで充分であると考えていたが、郵便史研究 家の一人からある使用例の提示を受け、調査を進めていく過程で、この普通郵便 局設置には何か他の理由があったのではないかと考えるようになった。提示を受け た使用例は、日本局の山東撤退、中国側引継ぎ(大正11年12月10日)以前に中国 青島局が存在し、日本青島局と中国青島局が郵便物交換業務を行っていることを 示すものであった。この使用例については後に取上げたいと思うが、日本の普通郵 便局設置と中国青島局の存在が関係しているとは、この時点では想像する事も出 来なかった。 |
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以上は一次大戦前の山東中国郵政(清国・中華民国)の主要関連事項である。 これを踏まえて、その後の青島を見てみたい。 青島陥落直後の大正3年11月17日、逓信次官中谷弘吉より陸軍次官大島健一中 将への報告(通第500号)によると、「済南に避難していた(旧ドイツ膠州湾租借地 内)支那青島郵便局長・服部某(服部幸之助)より青島入市許可の申請(11月16日) が日本国逓信省にあり、その青島入市と支那青島郵便局の業務再開等拒否につ いては、逓信省と協議の上回答する事(概要要約)」と伝えている。これに対し陸軍 次官大島中将からは、「単に個人として青島に入る事は許可するが、支那郵便局の 業務再開については拒否する(概要要約)」(欧受第1613号)と回答している。また、 同上(通第500号)では、「(旧ドイツ租借地時代の)青島には(ドイツ郵便局の他)従 来支那郵便局も設置してあり、同局においては専ら閉襄郵便物の(ドイツ側との)継 越業務のみを取扱っていたと承知している(概要要約)」とも述べている。 ドイツ租借地内のドイツ郵便局は、青島本局、大鮑島、大港、臺東鎮、四方、滄 口、李村、労山、沙子口、塔埠頭にあったが、少なくとも青島陥落(1914年11月)前 には青島市内に中国郵便局(無集配局・閉襄郵便物の継越業務)が存在していた ことになる。 (注:中華民国は1914年9月1日、UPU加盟) |
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図172 |
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図172は、1900年(明治33年)2月差出、旧ドイツ租借地外中国局(膠州郵政局)よ りドイツ青島局経由、ドイツ宛のコンビネーションカバー。 (ビュルテムベルギシェスオークション2002年2月より) |
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図173 |
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図173は、菊1銭5厘葉書、菊切手加貼4銭料金、1900年(明治33年)10月22日長崎 差出、上海日本局、上海ドイツ局、青島ドイツ局経由青島市内宛。その後この葉書 はドイツに転送されている。 |
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図174 |
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図174は、菊1銭5厘葉書、菊切手加貼4銭料金、1902年(明治35年)10月6日宮島差 出、上海日本局、上海中国局、青島ドイツ局経由青島市内宛。 青島陥落後、中国青島郵便局の業務再開は(日本陸軍と逓信省により)拒否さ れ、今まで紹介してきた日本の郵便局が青島市内の郵便網としては唯一になった はずである。しかしながら、日本局の山東撤退(大正11年12月10日)以前に、中国 青島郵便局が存在していたのである。 |
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図175 |
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図175は、1919年(大正8年)4月6日、スイス・ユングフラウヨッホ差出、中国上海局 (10月20日)、中国青島局(10月22日)、日本青島局(10月22日)経由、青島市内宛。 大正6年3月26日、北京において「山東日支通信連絡大綱取極メ」が締結され、日 支間の郵便・電信事務等について、暫行的取極めとして継続して交渉の上、業務開 始することが決められた。 大正7年10月10日、青島において「山東日支通信連絡細項取極メ」が締結された。 この取極めにより、日支間の通信連絡が正式に実施される事になった。 |
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そして、この「山東日支通信連絡細項取極メ」に基づき、同10月24日、青島守備軍 から陸軍大臣へ「普通郵便局及電信取扱所設置ニ関スル件」(欧受第1728号)が申 請されている。 ・日支通信連絡実施ニ伴ヒ十一月一日ヨリ租借地内各野戦局所在地及済南維縣 (三水の維)ニハ野戦局ノ外普通郵便局(実際の開局は11月21日)ヲ併置スル形式 ヲ採リ普通事務ノ取扱ヲ公表スルコトトシ又電信ニ関シテハ山東鉄道停車場構内ニ 於テ公衆電報ノ取扱ヲ為スハ明ラカニ取極ノ認ムル所ナルモ軍用通信所ニ於テ其 ノ取扱ヲ為スモノトスルハ穏当ナラス故ニ新ニ停車場構内ニ電信取扱所ヲ設置ス ル形式ヲ採リ度シ猶ホ租借地内ニ於テハ特ニ右ノ形式ヲ採ル必要ヲ認メサルモ公 表ノ都合上普通郵便局ニテ取扱フ形式ニ據リ度シ軍用通信所ハ其ノ儘存置ス、差 懸リ居ルニ付至急認可ヲ仰ク(大正7年10月24日、欧受1728号) これに対して、守備軍司令官へ10月30日(欧発1116号)許可の旨通知された。 また、同日陸軍より逓信次官へも同様の報告が伝えられている。(欧発1118号) 当時の中国にとって、山東の日本軍撤退と、在中国外国郵便局完全撤廃を要求 するうえでも、新たに旧ドイツ租借地外の済南、維縣(三水の維)に日本の普通郵 便局の設置を認めることは、決して有利なことではないはずである。 一方、日本側は、これら旧ドイツ租借地内外の普通郵便局の設置に関して、逓信 省主導の「民政下の手続を経た普通郵便局の設置」ではなく、青島守備軍主導で 「普通郵便局を野戦郵便局に併置」という方式をとっている。また、旧ドイツ租借地 内に中国青島郵便局の再開局を認め、“日支郵便交換”を名目として租借地外の 済南、維縣(三水の維)でも普通郵便局による普通郵便事務の取扱い開始を公表し ている。 このような普通郵便局の設置方式は、外地に展開する日本軍としては異例のこと である。また、「山東日支通信連絡細項取極メ」において、日本側は「旧ドイツ租借 地が日本の“専管居留地”となっても旧ドイツ通信利権は全て日本国が継承する」と 念を押している事にも注目したい。この時期の青島守備軍と逓信省の力関係も考 慮すると、第一次世界大戦の講和条約の実現により「山東問題」が国際舞台に上 がることを想定し、旧ドイツ租借地(及び山東鉄道沿線地域)を“占領租借地”から、 国際法上日本の“専管居留地”として管理する為の布石として、このような方式の普 通郵便局設置を行った可能性が考えられるのである。 「山東日支通信連絡細項取極メ」により、青島市内に中国青島郵便局が再開局さ れた。 上記使用例(図175)も考慮にいれると、中国青島郵便局は日支間通信交換を主 な業務とした無集配郵便局、及び電信取扱所であったと考えられる。局所在地、再 開局の正確な日付等は不明だが、日本の“普通郵便局”設置に呼応して(大正7年 11月末頃迄に)再開局されたと考えるのが妥当であろう。実際には日本の“専管居 留地”は実現せず、1922年(大正11年)11月、日中間に山東還付条約が締結され た。その後、日本局の青島撤退に伴い、日本の郵便施設・業務は中国側へ引継ぎ された。(大正11年12月10日) (注:原則として、歴史的事実・資料よりの抜粋等では“支那”を用い、一般的国名 としては単に“中国”とした。) |
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