日独戦争と俘虜郵便の時代 44
      03.10.15

22) 
英国軍差出の信書送達に関する件

 日独戦争時、日本軍の野戦局が英国軍の軍事郵便を臨時的に取扱った事は、軍
事郵便史の上でも重要な事実である。日本軍が英国軍に便宜を図ったであろう事
は、一部文献で指摘された事はあるが、その詳細については殆ど未解明の分野で
あったといえよう。ここでは、英国・英領インド陸軍の軍事郵便とその実像について検
証してみたい。


 
1914年(大正3年)817、加藤外相とイギリスのグリーン大使との会談で、青島攻
略戦における協同作戦において、両国陸海軍当局がその役割を直接協議する事が
決まった。
同22日、イギリス外務省は、英国陸軍の歩兵一ヶ大隊の参加を決め、協同
作戦において英国陸軍は日本陸軍の指揮下に入るよう命じた。
日同24日、この事が正
式に日本陸軍へ通知され、
9月1日「青島攻略ニ関スル日英陸軍協定」が締結さ
れた。この中で、「両締結国作戦軍ノ統一指揮ハ日本国作戦指揮官之ヲ執ルモノト
ス」
と明文化され、現地指揮官の第十八師団長神尾中将がその任務を負う事になっ
た。


 実際には、戦後の中国での主導権争いを睨んで、日英両国は水面下で様々な画
策をした訳だが、(イギリスは当初、同作戦に対してフランス、ロシア軍の参加も日本
へ提案していた)陸軍では日本が主導権を得る事に成功した。(一方、海軍では両国
ほぼ同等の主導権を持ち、陸軍に比べ柔軟に協同作戦を行ったといえる)


 英国陸軍の兵力としては、華北駐屯サウスウェールズ・ボーダラーズ第二大隊
(
870名)、インド人部隊・シークス第三六大隊の一部(450名)という小規模の兵力だけ
が参加する事になった。英国軍は、中国政府の中立宣言と交戦区域限定宣言を遵
守する事とし、上陸地点を労山湾に限定の上、日本軍に追随する事になった。この
為、日本軍(陸軍
1万数千人)の様に各地に根拠地を設置する事が出来ず、戦争が長
期化した場合、特に物資補給・通信手段(軍事郵便・電信設備)等に関して不安があ
った。英国陸軍は、日本陸軍に指揮権を与える事を条件に「青島攻略ニ関スル日英
陸軍協定」
において、これらの分野の協力を得る事になったのである。

英国陸軍司令部の将校・司令官バーナジストン将軍(中央)
図165 英国陸軍司令部の将校、中央に司令官バーナジストン少将

ビスマルク砲台下の英国軍兵士
図166 ビスマルク砲台下の英国軍兵士

 大正3年(1914年)9月10日、陸軍参謀次長・明石元二郎中将より、陸軍次官・大島健
一中将へ提出された申請書を見てみよう。

明石元二郎参謀次長(左二人目)・張村司令部にて
図167 左より2人目が明石元二郎参謀次長・張村司令部にて

 「英國軍差出シ信書等送達ニ関スル件照會」
 
大正三年九月十日 参謀次長明石元二郎
 陸軍次官大島健一殿

 青島攻略ニ関スル日英陸軍協定書第九條ニ基キ戦地ニ存ル英國軍若シ帝國郵
 便切手ヲ貼付セサル信書等ヲ適宜ノ容器(袋等)ニ納メ封緘ノ上我野戦郵便局ニ
 差出逓送ヲ依託スル場合ニハ我軍ハ之ヲ下関英國領事館迄逓送スルコトニ更ニ
 協定致候ニ就テハ門司下関間逓送ニ関シテハ貴省ヨリ逓信省ニ交渉相成度候也
 (参臨第
435号第1・欧受第574号)


 
9月12日、これに基づいて陸軍次官・大島健一中将より逓信次官・中谷弘吉へ、「〜
門司下関間逓送ニ関シテハ貴省ニ於テ可然計相成様致度及照會候也」
と申請され
ている。(欧受第
468号)

回答書(通第293号)
図168

 9月15日、この申請の回答が逓信次官・中谷弘吉より陸軍次官・大島健一中将へ
送られた。(
図168 通第293号)

 
大正三年九月十五日
 逓信次官中谷弘吉
 陸軍次官大島健一殿
 「戦地ニ在ル英國軍差出書状等在中容器ヲ門司下関間逓送方ニ関スル件」
 本件ニ関シ本月十二日附欧受第四六八號ヲ以テ御成圖ノ趣了承該容器ヲ門司
 郵便局ニ
交付アリタルトキハ同局ヨリ特便ヲ以テ下関英國領事館へ送付スヘキ様
 関係局へ訓令致置旨候御了知相成度回答候也


 9月17日
、陸軍は逓信省の回答をもってこの件の許可を受領した。(欧発第517号)

 大正三年九月十日参臨第四三五號第一ヲ以テ英國軍差出ノ信書等送達ニ関シ
 照會ノ處右ハ該容器ヲ門司郵便局ニ交付アリタルトキハ同局ヨリ特便ヲ以テ下関
 英國領事館へ送付可致旨回答有之候御承知相成度候也
 欧発第五一七號 九月十七日


 ここに挙げた資料の発見だけでも非常に重要なものであったといえるが、残念な
がらその具体的な取扱い方法については触れられていない。ここで、筆者の仮説と
事実をまとめてみたい。


 英印陸軍の軍事郵便は、通常独自に集配を行い、労山湾から英国軍艦により威海
衛の英国軍基地まで運ばれ、ルートにのせたと考えられる。青島への進軍に伴い、
小規模の英印部隊は、独自の野戦局網を充分に設置出来ないと考えられ、日本軍
の野戦局網を利用する事にした。


 同作戦での日本軍の軍事郵便取扱いは
大正3年8月27日からであり、独立第十八
師団野戦郵便部では軍事郵便しか受付けていない。つまり、師団野戦郵便局では
無料の軍事郵便だけを取扱い、原則として青島陥落前には切手貼付の普通郵便物
は受付けてない。普通郵便物の受付開始は、青島守備軍逓信部になってから(青島
陥落後)の
大正3年12月28日(龍口、青島、済南、黌山、李村各野戦局。軍令8号)から
であった。(青島では
11月25日より臨時に12種普通郵便に限り受付を開始した。欧
1567号) 特例の措置として、師団野戦郵便局は民間人の郵便物を申請許可(
治34年2月勅令第19条)の上受付けているが、青島陥落前の申請名簿記録を見ると
全て日本の従軍記者(新聞社等)であり民間人や外国人(観戦武官、外国通信社)等
の名前は見当たらない。


 「英國軍差出シ信書等送達ニ関スル件照會」を原文のまま解釈するのならば、英
国軍からの「帝國郵便切手ヲ貼付セサル信書」を閉襄のまま受付けるという事は、
師団野戦郵便局から下関英国領事館迄の逓送を、日英陸軍協定に基づく特例的
“軍事郵便”(無料)として取扱う事と解釈出来る。


 一方、「英國陸軍トノ共同作戦ニ関シ独立第十八師団長ニ与ヘタル指示及注意ノ
件、第五項・補給及通信ニ関シ注意スヘキ事」
(参臨第
279
号・大正393)に基
づく陸軍参謀総長・長谷川好道大将の指示によれば、英国陸軍の郵便物に便宜を
与える事、取扱う郵便物は行襄のままか、貼付すべき郵便切手は天津に於いて準
備携行する筈としている。支那に駐留していた英国軍は、天津や北京などの在支那
日本郵便局で支那加刷切手を事前に準備出来るとし、実質支那加刷切手の使用も
認めているのである。上記「英國軍差出シ信書等送達ニ関スル件照會」に於いて、
わざわざ「帝國郵便切手ヲ貼付セサル信書」と表記しているのは、英印陸軍兵士に
限り、「閉襄された“無料軍事郵便”の下関英国領事館宛まとめ便」の他に、「支那加
刷切手貼付の師団野戦郵便局受付郵便物」
としての“有料外国郵便”も取扱った可
能性を示唆している。


 英印陸軍差出郵便物の逓送方法として3つの異なる方法が存在した事になるが、
以上の情報から筆者の仮説を簡単にまとめてみる。存在する可能性期間は、
大正3
年(1914年)923
(英国軍上陸日)以降11月20日前後までとする。

 
@ 通常の英国軍独自の集配による逓送。労山湾から英国軍艦により極東の根
    拠地である威海衛等に直接送付する。通常の軍事郵便ルート。


 A 英印陸軍兵士は、洋封筒に英国・インド等の宛名を書き、切手を貼らずにまと
    めて行襄(郵袋)に詰め封緘をする。(封緘前に英印軍独自の検閲済)日本の
    師団野戦郵便局は検閲する事なく適宜これを受付け、労山湾までは師団郵便
    部管轄、労山湾より門司郵便局迄は陸軍運輸部管轄、門司郵便局より下関英
    国領事館迄は(特便)逓信省管轄にて、未開封のまま逓送する。英国領事館で
    は、検閲、宛先分類などの後再び閉襄の上、日本寄港中の英国軍艦へ直接持
    込むか、威海衛又は香港等まとめて公用小包(下関郵便局より)等を利用し送
    付した。その後通常の軍事郵便ルートにのる。


 B 英印陸軍兵士は、天津などで準備した日本国支那加刷郵便切手(10銭)を封筒
    に貼り、英国・インド等の宛名を書き、(英印軍独自の検閲済)そのまま日本の
    師団野戦郵便局に差出す。同局では特例として、この切手貼の“準軍事郵便
    物”を受付け、師団野戦郵便局の局番号野戦局日付印で切手抹消の上、外国
    郵便物として日本側交換局である門司郵便局へ逓送し、その後通常の外国郵
    便物として宛名国まで逓送する。(日本側の検閲も可能であったと考えられる)
    (同様に葉書、
4銭貼の郵便物も取扱った可能性がある)


 それでは、日本の師団野戦郵便局が受付けた、A
Bの郵便物の姿を想像して
みよう。

A 洋封筒、英国又はインド宛の宛名書
裏面に差出人名: South Wales Borderes ○○○○(英国宛)、又は
GB-Sikhs ○○○○(インド宛)
郵便切手貼付無し
下関英国領事館のフォワード印(この印があれば@の方法ではない事の証明)
英国軍検閲印、英国野戦局引受印、各種郵便中継到着印など

B


洋封筒、英国又はインド宛の宛名書
裏面に差出人名: South Wales Borderes ○○○○(英国宛)、又は
GB-Sikhs ○○○○(インド宛)
支那加刷切手10銭貼(菊、田沢)
切手抹消印は局番号野戦局日付印、中継印として門司の櫛型(和又は欧文)
各種郵便検閲印・封緘等、各種郵便中継到着印など

 以上、かなり大胆な仮説を立てたが、筆者自身にわかに信じられるものではなく、
記事を書くにあたり幾度か錯誤などもあった。特にBの例が正しければ、山東の師
団野戦郵便局で、最初に支那加刷切手を郵便物に使用したのは英印陸軍の兵士、
という事にもなってしまう。実物が確認されれば謎の解明が大きく前進する筈だが、
対象である英印軍兵士が少なく、正規の英国軍独自の送達ルートも並行して存在
し、そして期間も極短い事から、その存在の確認は非常に難しいといわざるを得な
い。実物の登場により、筆者の仮説が空論になる事もあると充分に承知しているが、
現時点での報告としておきたい。


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