日独戦争と俘虜郵便の時代 35      03.07.15

16) 青島のドイツ企業(その2)

・青島ビール

 フィラテリストにとって青島といえば“青島軍事”とこたえる方が多いと思うが、一
の方なら“青島ビール”という方も多いのではないだろうか。現在では中国を代表す
る世界的ブランドの青島ビールだが、その歴史が日独戦争に大きく影響されていた
事は、意外と知られていない。


図77拡大図(日独戦争と俘虜郵便の時代 24)


図122 ドイツ経営時代のビール醸造所 (資料提供 Mr.Tsingtau)

 青島ビールの歴史は、
1903本社を香港においた民間企業アングロ・ジャーマ
ン・ブリュワリー・カンパニー(
Anglo German Brewery Co.資本金40万ドル)として、青
島薹東鎮部落に醸造所が設けられた事に始まる。見難いかもしれないが、
77(矢
印)
中央の薹東鎮の下、モルトケ兵営北隣に“麦酒會社”とあるのがお分かりいただ
けようか。


 主要な株主は香港、上海、青島、芝罘、天津等の中国各地に在留するイギリス、
アメリカ、ドイツ、フランス人であったが、その大多数はドイツ人であった。主にドイツ
(ミュンヘン式)のビール醸造技術をもって豊富なミネラル水を利用した高品質のビ
ールを作り出し、
1906には年間醸造高120万リットルを越え、青島を代表する優良
企業に成長した。生産品の大部分は在留外国人の多い中国各地に輸出され、東洋
で味わえる本場祖国の味と評判だったようだ。


 
1914(大正3)8月末、日本海軍による膠州湾封鎖により、同社の輸出は杜絶し
製造中止を余儀なくされた。これに伴いドイツ青島守備軍は、同ビール醸造所施設
をドイツ軍野戦病院に使用する為接収した。青島陥落時には、ドイツ軍傷病兵
517
名、衛生部員(医者・看護婦等)
279名が在ったと記録されている。
 陥落後の
1114、日本軍司令部代表中島軍医部長と同病院長フェルステン博
士が会見し、日本側引継ぎの手続を開始した。これには後の板東収容所日語通
(通訳)俘虜クルト・マイスナーも通訳として立ち会っている。

 日本軍は、私有財産は保護する方針だったので、日本軍医関係者が垂涎の膨大
なドイツ医学書も、私有財産として病院側に返還する事が決定された。フェルステン
博士はこの日本軍の処置に感動し、憎き英国軍の手に渡る事を避ける為に日本軍
への譲渡を申しでた、というエピソードも伝えられているが真偽は定かでない。

 ドイツ軍野戦病院(旧ビール醸造所施設)は青島守備軍司令部(日本軍)の管理
下に置かれ、一部施設は引続き野戦病院として使用されていた。同病院は
大正4
1915年)
中に閉鎖したようで、青島守備軍病院に引継がれ、日本軍傷病兵と共に
長距離移動不可の傷病ドイツ俘虜をそのまま受容れている。


 その後、閉鎖されていた旧ビール醸造所施設は、
大正5年916、大日本麦酒
株式会社に買収され、同社の傘下醸造所として
同年1225より操業が再開され
ている。

 [大日本麦酒株式会社は、
19063日本麦酒、札幌麦酒、大阪麦酒各社の合併
により生まれた、昭和
24年日本麦酒(現サッポロ)、アサヒ各社に分割]

 
昭和20(1945)、日本の敗戦により同社の青島醸造所は中国に返還されること
になり、中国国営企業として新たに生まれ変わる事になった。現在では中国を代表
するブランド“青島ビール”(
TsingtaoBrewery Co.Ltd. H.Shares)として、現在も旧醸
造所と同地区(青島市北区、登州路)にビール工場を持ち、関連
40社以上のグルー
プ企業にまで成長している。(近年日本のアサヒビール株式会社とも提携)
 
また、青島市では
1991から世界各国の経済文化交流を目的とした「青島ビール
祭」を開催し、
毎年8月中旬(2週間程)より青島国際ビールシティをメイン会場として
多くの観光客で賑わっているそうだ。(本年度は、青島ビール100年祭が開催予定で
ある。)


・青島守備軍病院と青島病院

 「青島守備軍病院」は、青島守備軍司令部(旧ドイツ膠州湾総督府)の裏手、庭園
丘隣の旧ドイツ膠州湾総督府衛戍病院(ドイツ官営)を接収したものである。広大な
敷地に施設が点在し、接収直後より青島守備軍の野戦病院として使用された。


123 大正4年初め頃の青島守備軍病院


124 日本軍医と看護婦が傷病兵を診察している。

 その後、大正4年(1915年)5、同病院施設内に「青島療病院」が併設され、軍人
及び一般市民の通常診察も開始された。その後、青島軍政署診療所及び同分室を
青島療病院の分院として吸収し、大正
56月「青島病院」と改称している。
大正6
10民生部条例発布とともに青島守備軍病院所属軍医の青島病院での兼勤が解
かれた。青島病院では民間医師の勤務が始まり、組織としては青島守備軍病院か
ら完全に独立し、新たに病院庁舎も建設している。



図125

 125は、大正3年(1914年)1219に広東在住のドイツ人が、広東の日本郵便
局よりドイツ兵俘虜宛に差出した(
櫛型・CANTON/19.12.14./IJPO)俘虜郵便であ
る。差出人は、書留便を希望したが許可されず、同局で角型“俘虜郵便”朱印(広東
局のものは少ない)が押されている。今回取り上げた、上記「青島ビール」と「青島
守備軍病院」が、この郵便物の逓送路解明のヒントになった。


 クーロ中佐が率いた海軍東亜分遣隊第三中隊レーラー・カール・ベットガー上等
兵宛で、差出人は宛名住所欄にベットガー上等兵が青島内の病院にいた事(
bisher
krank im Lazarett zu Tsingtau
)を追記しているが、現所在地不明として東京の俘虜
情報局宛に差出している。情報局で調査の上検閲され(検閲青印)、該当俘虜名が
日本移送済ドイツ俘虜名簿に無い為、まだ青島の病院にいると考えられ青島守備
軍司令部へ転送される事になった。転送指示は赤ペンで“モルトケ廠舎”(モルトケ
兵舎)と書かれているが、これはモルトケ兵営北隣にあったドイツ軍野戦病院(旧ビ
ール醸造所)を意味するものと考えられる。(又は、“モルトケ兵舎”内に臨時の若鶴
俘虜収容所が置かれていたので、同俘虜収容所宛の指示だった可能性もある。)
青島守備軍司令部で調査したところ、該当俘虜は既に青島守備軍病院(旧ドイツ膠
州湾総督府衛戍病院)にいたので、司令部で廻送指示(
417)の付箋が貼付
され、青島守備軍病院へ送られた。配達引受局印として、
櫛型・第一/4.1.8./野戦局
(青島)
が押されている。

ご意見・ご感想は当社まで メール でお願い致します。 目次へ