日独戦争と俘虜郵便の時代 31 03.06.10 |
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14) 近代兵器 (その3) |
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20世紀にはいり、人類は大空までも戦場にしてしまった。今日の航空産業の発展 は、“戦争”というものぬきに語る事は出来ない。たった4年半の第一次世界大戦中 に、航空産業は著しく発展したが、これらのほとんどは新時代の“兵器”としての開 発・改良によるものであった。 ・ツェッペリン型飛行船 ツェッペリン型飛行船は、フェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵により1898年ド イツ・シュトゥットガルトで開発が始まった。1900年7月、全長128m、直径11.7m、水 素を浮力とするツェッペリン伯1号(LZ-1)がボーデン湖で飛行テストを行っている。 度重なる成功・失敗を繰り返したが、1910年ドイツ飛行船事業促進株式会社 (DELAG)を設立、その後軍事利用も検討され、第一次世界大戦初期には偵察、爆 撃用に使用されている。 |
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図102 |
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図102は、第一次大戦勃発後の1914年(大正3年)10月22日、東京深川よりロンド ンの友人宛に差出された葉書である。田沢切手貼、櫛型・深川/3.10.22./前11-12で 抹消されている。11月30日の到着私印があるので、アメリカ経由で運ばれたと考え られる。文面が面白いので、紹介しよう。「〜戦時の倫敦(ロンドン)は如何に、独の 飛行船が倫敦の空を見舞ふ様な事は御座いますまいか。青島の陥落も近日なら ん、東洋方面は之で一段落して〜欧州の天地は今後如何に」この差出人の心配 は、翌年現実のものとなる。 1915年1月19日、ドイツ飛行船が海を越えロンドンの空に現われた。(ロンドン初空 襲)もっとも、空襲としては小型爆弾の投下という原始的なものだった。飛行船は当 初偵察が主な任務であったが、爆撃にも使用されるようになり、パリやロンドンを 度々空襲している。また、1915年3月21日には、パリで夜間空襲も成功している。そ の後、第一次大戦中ドイツ軍は、航空機の発展によりゴータ爆撃機を導入し、飛行 船での爆撃を減らしていった。 |
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図103 出撃するツェッペリン初期型飛行船 |
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第一次大戦の敗戦復興後もツェッペリン型飛行船の発展は続き、1924年大西洋 横断、1929年世界一周、1931年北極横断の快挙を達成している。最盛期のツェッペ リン型飛行船は、全長約240m、直径約30m、航続距離1万1千キロを誇り、1928年 「LZ-127ツェッペリン伯号」、1936年「LZ-129ヒンデンブルグ号」等の巨大飛行船が 世界を席巻した。 1929年(昭和4年)、ツェッペリン伯号の世界一周飛行は当初資金繰りに苦しんだ が、アメリカの新聞王ランドルフ・ハーストが、ニュース独占権を得る代わりに莫大な 資金(約10万ドルといわれている)を提供し実現にいたった。その為、公式な出発・ 終着地はドイツではなくアメリカとなり、レイクハースト(アメリカ)−フリードリヒスハ ーフェン(ドイツ) −東京(茨城霞ヶ浦海軍飛行場)−ロサンジェルス−レイクハース トという東回りコースで飛行する事となった。(1929年8月7日発、8月27日着) |
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図104 ツェッペリン伯号来着記念絵葉書 |
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昭和4年8月19日世界一周飛行の途中、日本の霞ヶ浦海軍飛行場に着陸した。 (東京上空にも飛来)図104の葉書には記念印としてトビ色櫛型・茨城阿見/4.8.19. が押されている。この飛行では各国航空郵便も受付け、その高額な特別航空料金 を経費の一部にすることになり、日本からも米国及び実際の終着地ドイツ宛に郵便 物を受付けている。(逓信省告示第2326号) 図105と図106を合わせて世界一周 区間となる。 |
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図105 レイクハーストより東京宛 |
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図106 東京よりレイクハースト宛 |
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1936年ヒンデンブルグ号は、フランクフルトとレイクハースト間の定期航路に就航 したが、1937年5月6日レイクハーストに着陸時爆発炎上するという惨事(乗員乗客 97名中死者36名)を起こしている。この時積まれた郵便物は、“事故郵便”収集の目 玉として、客船タイタニック号郵便物等とともに収集家に珍重されている。その後、 飛行船は第二次世界大戦勃発とともに、航空機にその道をゆずることになった。 |
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図107 フランクフルト、格納庫を出るヒンデンブルグ号、写真葉書 |
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