日独戦争と俘虜郵便の時代 26 03.05.07 |
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12) ドイツ青島要塞攻略 青島陥落 |
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11月7日早朝、各砲台陥落の報を受けて、ワルデック膠州湾総督により青島測候 所(気象台)信号檣頭に白旗が揚げられた。ドイツ側命令指揮系統は一時混乱し、 陣地爆破放棄をもってドイツ軍各部隊は独自に日本側へ投降を始めていた。 |
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図83 イルチス砲台付近でドイツ軍俘虜にドイツ軍用車を運転させる、歓喜の日本兵 |
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図84 |
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午前9時20分ドイツ側軍使としてルードヴィヒ・ザークセル大佐、カイゼル少佐、 (通訳ユーバーシャル義勇兵)が投降し、臺東鎮部落において日本側軍使香椎浩 平参謀歩兵少佐(通訳山田大尉)へワルデック総督の降伏状を届けた。午前11時、 降伏状は香椎少佐より司令部に渡り、神尾司令官確認のうえ陸軍省に打電され た。午後4時参謀長山梨少将、磯村大佐、香椎少佐、高橋海軍参謀少佐、英軍フロ ルス中佐、山田大尉、兵頭顧問、湯目通訳ら日本側全権委員は、モルトケ兵営に おいてドイツ側全権委員ザークセル大佐らと会見(図84 会見場・モルトケ兵営と会 見室)し、無条件降伏を求め、兵営、建築物、鉄道、軍需品等全てを無条件現状引 渡しとし、本条十か条付則十二か条(資料により本条八か条付則九条との記録もあ る)の青島開城規約書に調印することをもって、ドイツ側降伏を受け入れる事となっ た。会見は約四時間に及び、午後7時50分ついに両軍は調印に至り、双方青島開 城委員を設ける事とし、ここに青島は陥落した。 |
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図85 ドイツ兵器保管庫の戦利品の一部 |
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図86 青島陥落を伝える8日付の東京日日新聞 |
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資料により死傷者数に若干誤差がみられるが、青島攻略戦における9月2日上陸 以来の両軍損害を記録しておきたい。日本海軍損失は、巡洋艦高千穂、駆逐艦白 妙、水雷艇第33号、特務艦第三長門丸、第六長門丸、弘養丸。戦死約295名、負傷 約50名。日本陸軍は、戦死約415名、負傷約1500名。英国軍は、戦死12名、負傷約 60名。ドイツ・オースリアハンガリー同盟軍は、戦死約200名、負傷約500名、陥落時 俘虜約4800名。損失艦艇は、巡洋艦カイゼリン・エリザベート、砲艦コルモラン、イ ルチス、ヤグアール、チーゲル、ルックス、駆逐艦S90、ターク。 オーストリア・ハンガリーの巡洋艦カイゼリン・エリザベートは、実は上海から横浜 へ向かう日本への親善航海の途中で、日独国交断絶の報を受け、本国より青島へ 向かう事を命令され戦闘に加わっていた。 青島陥落日(7日)の午後5時、英国軍バーナジストン少将は副官を従えて、第一 線より浮山の北麓大庄の日本軍司令部へ現れた。神尾司令官は三鞭(シャンパン) を抜いて歓迎し、バーナジストン少将も青島陥落の祝辞をもって応えた。一方、ワル デック膠州湾総督は、占領当日ビスマルク兵営内地下室にて指揮をとっていたが、 同兵営占領時に身柄を拘束され監視下におかれた。 ワルデック総督は、翌8日夜、日本軍司令部にドイツ皇帝へ7日付の電奏許可を要 求し、膠州湾青島守備軍の降伏を伝えた。この電奏は、司令部陸軍無線電信隊よ り軍艦周防の無線電信を経由し、直ちに北京駐在ドイツ大使へ打電された。ドイツ 皇帝の返事が北京ドイツ公使館へ届いた事が11月17日付各新聞紙上で発表され たが、その内容は非常に暖かいもので、ワルデック総督に対しては鉄十字一等勲 章、又カイゼリン・エリザベート乗組員、及びドイツ青島守備軍に対する感謝が述べ られ、戦死傷者の氏名を速やかに打電するよう伝えている。 |
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図87 |
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図87は、青島陥落後ドイツで作られた絵葉書で、11月7日の攻防戦を生々しく伝え ている。この絵画はドイツ人画家リアルト・アスマンによるもので、青島陥落を伝える ライプチヒの新聞紙上にも発表された。この絵葉書は同紙の許可のうえ製作された ものである。負け戦をこのように報道し絵葉書まで作るというのは当時の日本の常 識では考えられないが、ドイツ国民や俘虜になった兵士自身も、最善を尽くして戦っ たうえでの降伏、敗戦は恥ずかしい事でなく、むしろ誇りにすべきものと考えていた ようである。もっとも、この時期のドイツ国民は青島陥落を遠いアジアの極小さな局 地戦の敗戦と考えていて、一次大戦における同盟軍の勝利を疑うものは少なかっ たともいえよう。 |
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