日独戦争と俘虜郵便の時代 23
      03.04.19.

12) 
ドイツ青島要塞攻略 上陸作戦

 日独戦争開戦時にドイツ膠州湾総督マイヤー・ワルデック大佐と参謀長ザークセ
ル大佐の下へ集まった、青島のドイツ及びオーストリア・ハンガリー陸上兵力は約

5900
名である。青島市街は軍事施設にとり囲まれるように区画され、各岬には砲台
が設置されていた。また、膠州湾と市街を見下ろすように背面の山にも強固な砲台
が設置され、青島は地理条件を巧く利用した要塞都市であったといえる。

 
大正38月末、折からの季節風やドイツ側防御線を考えると、膠州湾に敵前上陸
することは軍事物資や資材の陸揚げ作業に伴う危険が大きすぎた。その為、日本
陸軍は中国側が指定した陸上交戦容認区域(青島より50キロ以内を山東半島交
戦区域と限定した)を無視し、山東半島北岸の龍口に主隊を上陸させ、青島へ山東
半島を横断することを計画した。移動の制約がある攻城機材や重砲などの物資運
搬ルートとしては、山東半島南岸の労山湾を上陸地点とし、それまでに主隊は労山
湾北西部にある要所、即墨まで進出することになった。また、第三の上陸地点とし
て沙子口が選ばれ、軽便鉄道資材や海軍飛行機などの陸揚げも予定された。


図72

 大正392、第二十四旅団長山田少将率いる先遣支隊とともに独立歩兵第
二大隊(第十師団)が龍口へ上陸を開始した。この時暴風雨の為、龍口市街は大き
な被害を受け、龍口河も氾濫し上陸作業に手間取ることになった
(図72)。後続の神
尾中将と師団司令部は、
95に龍口へ上陸した。


図73

 73は、龍口で撮影された軍司令官神尾中将の青島征討諭告文で、日付は上陸
初日のものである。(中国側の理解を得るため進軍各地で通知された。9月6日他
異なる日付の諭告文も記録がある。)独立第十八師団野戦郵便部は、上陸翌日の
9月3日、龍口に青島攻略戦最初の野戦局である第一野戦局を開設した。以後部
隊の南進に伴って、各野戦局が開局となった。


 野戦郵便局としては、第三野戦局が師団司令部に追随して9月24日即墨に開
局。また、第四野戦局は労山湾方面、王哥庄に9月25日開局した。これにより、青
島要塞攻略前の軍事郵便路線として、即墨を軸に上陸部隊の郵便路線が繋がっ
た。
9月中に開局となったのは、第一から第四までで、9月中の日付をもつ軍事郵
便の確認数は少ない。



(74)
大正3年9月18日
、労山湾に第二上陸部隊と膨大な軍事物資が陸揚げされた。


図75

 臨時鉄道連隊第三大隊も資材とともに上陸し、これより攻城地帯内軽便鉄道路線
として全長140キロに及ぶ軽便鉄道網を輸送路として敷設した。
75は、龍口上陸
部隊と労山湾上陸部隊の合流地点である下王埠庄付近の輸送状況。労山湾
(
)から軽鉄道の線路が見える。これより、輸送路は李村へ向かう。また、
9月23日
から24日
にかけてイギリス部隊が労山湾に上陸、日本軍によるドイツ軍前進基地
である狐山、及び浮山占領
(9月28日)後、インド人部隊とともに日本軍に合流した。

ご意見・ご感想は当社まで メール でお願い致します。 目次へ