日独戦争と俘虜郵便の時代 20 03.03.25. |
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10) ドイツ膠州湾租借地 |
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舞台は青島に移るが、ドイツ青島要塞攻略作戦を述べる前に、ドイツが膠 州湾を清国から租借した経緯や、当時の欧州列強国の極東戦略等を簡単に紹 介しよう。時代は前後するが是非ついてきてもらいたい。 アヘン戦争(1840-42)にはじまる、欧州列国の中国大陸への武力による進出 は、19世紀末にはさらに深刻となった。清国は修好条約という大義名分のも とイギリス、フランス、ロシア等から不平等な条約を締結させられ、南北戦 争(1861-65)で遅れをとっていたアメリカもそれに加わる。西太后摂政の時代 には、清仏戦争(1884-85)に敗れた清国に対し、列国はさらなる要求を繰り返 していた。 一方、幕末の日本も清国同様の危機をむかえたが、地理的条件や列国の利 害がぶつかるという幸運にも恵まれ、明治維新により植民地化をまぬがれて いる。また、日本が"海軍力"の重要性を知ったのもこの時であろう。富国強 兵の名のもとに軍備増強をはじめた日本は、1893年陸奥宗光による条約改正 交渉を開始し、翌1894年(明治27年)には朝鮮半島をめぐり清国と対立した。 日清戦争(1894-95)に勝利した日本は、1895年4月17日下関条約により遼東半 島、台湾等を戦利獲得する事になったが、同23日ロシア、ドイツ、フランス による反対(三国干渉)により、5月10日日本は遼東半島還付を決定する。こ の時の日本国民の悔しさは大きなものだったが、列国の圧力には屈するしか なかった。日本は軍事力で欧州列強国に一歩でも近づき、日本を守るだけで なく、極東アジアにおいて軍事力による主導権を握ろうとしていた。一方、 欧州列国は、対中国、朝鮮の利権獲得競争をさらにすすめていくうえで、隣 国である日本を力で抑えなければならなかったのである。 1897年、山東の暴動で2人のドイツ人宣教師が殺害されると、ドイツ軍は膠 州湾を占領、翌1898年3月6日ドイツは99ヶ年の期限で膠州湾を租借する事 に成功する。 |
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図59 |
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(図59、黒太線内はドイツ膠州湾租借地の範囲、十字破線内は日独戦争時中国 側が宣言した膠州湾交戦区域)それに乗じて列国は清国に圧力をかけ、3月27 日ロシアは旅順、大連を租借、4月5日フランスは広州湾を占領(翌1899年11 月16日租借)、6月9日イギリスは九龍半島、威海衛を租借した。扶清滅洋を スローガンとした義和団の乱(北清事変1900-1901)はこれらを受けて起こった が、列国の力の前には為す術がなかった。一方、三国干渉の悔しさを忘れて いない日本国民は、この三国が中国に租借地を得た事に非常な反感を持って いた。特に遼東半島に租借地を得たロシアへのそれは憎しみにも近いもの で、日本はイギリスと同盟を結ぶ道を選ぶ事になったのである。 (日英同盟の項参照) |
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図60 東洋の小ベルリンと呼ばれた、1905-10年頃の青島市街。フリードリヒ通り |
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図61 ドイツ切手鷲10pf. 無加刷貼 1899年青島発信ドイツ宛の使用例 |
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最初の中国ドイツ局は、1886年8月16日上海に開局されているが、ドイツ 膠州湾青島局は、占領後の1898年1月26日に開局している。当初中国内ドイ ツ局ではドイツ切手(無加刷)の使用が認められ、1898年より"China"加刷切手 の使用が始まっている。膠州湾租借地でも無加刷ドイツ切手と"China"加刷 が、1901年膠州湾正刷切手発行まで並行して使用されている。 |
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図62 1898年発行ドイツ連合葉書10pf."China"加刷 1899年青島発信ドイツ宛の使用例 |
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図63 セント表示正刷切手2cent.二枚貼 1911年青島発信横浜ドイツ病院宛の使用例 |
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1901年ドイツ膠州湾正刷切手が発行された。 (マルク・ペニヒ表示から1905年中国ドル・セント表示に変更) |
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