日独戦争と俘虜郵便の時代 13
      03.02.05

8) 特務艦隊の活躍 地中海編(その1)

 欧州戦線が激しくなるにつれ、同盟国イギリスをはじめ、ロシア、フランス、イタリア
は日本軍の欧州への派兵を要請してきた。しかし、明治以来親独派が主流といわ
れた日本陸軍は、それを頑なに拒み続けた。特に、
1917年に入ると、連合国からの
派兵要請が回数を増し、同10月に開催予定の連合国戦争指導会議に於いて、日
本の非協力体制を非難する決議が採択される可能性も出てきた。日本国内の世論
に於いては、何の利益も生まない日本陸海軍の欧州派遣には反対の声が強く、新
聞紙上で激論が続き、政府もそれを無視するわけにはいかなかった。日英同盟の
適用範囲はインド洋までであり、将来の対米戦争を想定した場合、特に海軍力の損
失は避けたかった。(
1917年7月の日英同盟第三次改定により、包括的仲裁裁判条
約締結国を日英同盟対象外とし、日米戦争がおきた場合には、日英同盟は適用外
となった)このような状況ではあったが、日本海軍では、積極的に同盟国イギリスを
支援しようという空気が広がり(実際には陸軍への対抗意識や、南洋群島占有によ
る海軍の南進政策への布石として)、地中海派遣要請を受け入れる事になった。そ
して、この遠征と引き換えに日本政府は、
1917年はじめ、イギリス、フランス、ロシア
と秘密条約を結ぶ事に成功する。戦後体制に於いて、山東半島及び赤道以北の南
洋群島のドイツ利権を、日本が保持する事を保証するというものだった。連合国に
とっては、日本陸軍の欧州派兵を断念するばかりか、極東及び南洋ドイツ利権の日
本の継続保持を許可するというところまで譲歩しなければならないほど、日本艦隊
の地中海派遣は切望されていたのだ。もっとも、欧州戦線に釘付けの連合国は、極
東のドイツ利権等に構っていられなかったのが現実だろう。


図39

 1917年1月10日、ドイツは連合国側の欧州大陸への海上交通破壊を目的とする、
無制限潜水艦作戦を決定した。これは、軍艦は勿論、中立国米国船を含む民間船
等もドイツ側が必要と認めた場合、通告無しに攻撃するというものである。
(図39)”海
の狼”と恐れられたドイツUボート。これを受けて、
1月11日、イギリスは日本へ駆逐
艦隊の地中海派遣を要請した。
1月31日には、ドイツから中立国アメリカに「2月1日
より無制限潜水艦作戦を開始する。」と通告があり、ニューヨーク港は閉鎖を余儀な
くされる。そして、アメリカは
2月3日、ドイツとの国交断絶を決定し、4月6日にウィ
ルソン大統領の元、遂にドイツへ宣戦したのである。


図40 1917年アメリカ陸軍兵募集ポスター”アンクル・サム”

 また、アメリカの参戦により、日本とアメリカの関係は一時的に好転した。1917年
11月までに
、米国務長官ライシングと遣米特使石井菊次郎により、日米海軍協定を
含む、石井・ライシング協定が調印となり、日本海軍は
11月1日、ハワイ警備命令を
発令し、巡洋艦常盤をハワイ方面へ巡航警備に充てた。

 ではなぜ、この時期に地中海へ日本の駆逐艦隊が必要だったのだろうか。英仏連
合軍の欧州大陸の兵力増強には、特に西部戦線に於いてインド・オーストラリア・モ
ロッコの各兵員、又それに伴う物資等を必要とし、それにはドイツ潜水艦が暗躍す
る地中海を横断しなければならず、その安全な輸送船団の航路を確保する必要が
あった。


図41 1915〜16年にドイツで作られた
海上交通破壊作戦を鼓舞する宣伝絵葉書

 ドイツ潜水艦の得意とする攻撃は、港付近の海域で船団が低速で航行する時を
狙うものであったので、なるべく寄港地を減らし、目的地まで航行しなければならな
い。しかし、連合国側の駆逐艦は、欧州仕様の航続距離の短いものが主流で、また
数少ない航続距離の長い航洋型駆逐艦は、大西洋や北海方面に必要なので”太
平洋仕様”である日本の駆逐艦の遠征が切望されたのである。実際に派遣された
駆逐艦は、
大正3年末に急造された航続距離1,600海里(15ノット)の航洋型樺級二
等駆逐艦群である。


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